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銀座の景色と歴史
銀座・・・日本で一番有名な場所、世界にもその名を知られた銀座は、その名前だけで一つの「ブランド」として認知されています。その歴史は、江戸、徳川家康の時代にも遡ります。歴史の町、そして様々な情報発信の最先端基地都市として銀座は多くの人に愛されています。
銀座の景色
銀座発祥の地
今では全国の多くの繁華街が「銀座」の名前をつけています。その名の発祥は江戸時代にさかのぼります。 「銀座」は銀および銀貨の鋳造・取締りを司った幕府の機関の名称で、慶長17年(1618年)に銀座二丁目に創設されました。
煉瓦銀座之碑
明治5年(1872年)の大火は、銀座一帯を焼きつくしました。これを機に、不燃性の都市を建設し文明開化の象徴とする都市計画が、銀座煉瓦街の誕生となりました。
電気灯柱記念碑
明治15年(1882年)、宣伝用として、2000個もの電気の街灯が点灯されました。当時、ガス灯や石油ランプしか知らなかった人々に、一大センセーションを巻き起こしました。
数寄屋橋跡
数寄屋橋は寛永6年(1629年)に江戸城外郭見附として架けられました、かの有名な南町奉行所がかつてこの橋の有楽町側にありました。関東大震災の後に、現在の石橋に架け替えられ、その後、銀座の入口として親しまれています。
和光(旧 服部時計店)
銀座のシンボル的存在、銀座4丁目交差点の一角にある、和光(旧 服部時計店)の時計塔が建設されたのは1932(昭和7)年のことです。戦災と高度成長期の激しい変化を乗り越え、今もそのたたずまいを残しています。
銀座中央通り
日本の歩行者天国発祥の場所であり、最先端のファッションがここから生まれていきます。高級ブランド店や有名百貨店が立ち並ぶ世界有数のストリートです。
銀座の歴史
江戸時代の銀座は、貨幣の鋳造が行われ、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた「職人の町」として発展したことは銀座の歴史の中でも意外なことかもしれません。
「銀座」の地名も、貨幣の鋳造、つまり、銀を扱う場所と言う意味で、「銀座」となりました。
銀座が、今の商業、ビジネスの中心地としての片鱗を見せ始めたのが明治時代の2度の大火の後。横浜―新橋間を結ぶ鉄道の新橋駅と東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を、文明開化の象徴的な街にするという東京都の都市計画により、火事に強い銀座煉瓦街の建設が行われました。 しかし、銀座は関東大震災、第二次大戦による空襲によって、壊滅的な被害を受けることになりますが、戦後の高度成長期、そして東京オリンピックの開催に合わせた都市インフラの整備で再び急成長を遂げる事になりました。
このように銀座は戦後急成長を遂げましたが60年代後半に若者文化が新宿に移行するに伴い、盛り場としての地位を譲ることになります。
しかし、70年から開始された日本初の歩行者天国、90年後半から開始された再開発によって、海外有名ブランド店や高級店の進出により、銀座は、大人の街としての地位を確立しました。
銀座の景観
銀座には独自の「銀座ルール」というものがある。中央通りに面した建物は、高さ56mを超える建築物を建てないというもの。また、通りに面した部分のセットバックを基本的にせず、建物壁面を合わせる。この銀座ルールによって、街並みに統一感のある独特の雰囲気を醸し出しています。
銀座の経済
銀座は明治時代、高級舶来品が並ぶ商店街として発達してきました。これは、かつて、築地鉄砲洲に外国人居留地があり舶来品の往来が盛んとなったためで、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たしました。
そうした西洋文化の流入はファッションの世界にも大きな影響を与え、大正末期から昭和にかけてモボ・モガと呼ばれる当時の最先端の流行を生み出し、高度成長時代は「みゆき族」と呼ばれる若者の出現の場ともなりました。90年代後半からは、並木通り沿いに高級海外ブランド店が進出しています。
また、銀座には古くからマスメディアの集中した場所でもあります。その歴史は明治時代に銀座煉瓦街が建設されたことによって、多くの新聞社が集中したことに端を発し、現在では、情報通信業、広告代理業などを営む大企業が集中している場所でもあります。
歴史、最先端の流行、情報通信の発進基地、さまざまな顔を持ち、世界にもその名を響かせる街、それが、「銀座」です。